吉原の街並み(台東区)

日本最大の遊郭「吉原」。

開設は江戸開府(1603年)から14年後の1617(元和3)年、現在の日本橋人形町の沼地を埋め立てて遊郭が造られた。

吉原には、日本初の遊郭である京都の柳町遊郭や、家康のお膝元である駿府の二丁町遊郭から業者が遊女を引き連れて移ってきた。

しかし、1657(明暦3)年の江戸大火をきっかけに浅草田圃に強制移転。

以来、人形町は「元吉原」(芳町)、浅草の方は「新吉原」と呼ばれていたが、次第に浅草が「吉原遊郭」として定着。

『全国遊郭案内』によれば、昭和5年当時<引手茶屋が四十五軒、貸座敷業が二百九十五軒、紅唇の娼妓が三千五百六十人働いて居る>。

『全国花街めぐり』によれば、昭和4年当時<貸座敷 二百九十五軒 同娼妓 二千四百六十九人(昭和四年三月調) 引手茶屋 四十二軒 芸妓 大小百五十五人 幇間 二十七人>。

しかし、明治44年の大火、大正12年の関東大震災、そして昭和20年の東京大空襲で三たび焼け野原に。

戦後は一時期、進駐軍向けの慰安施設(RAA)が造られるも、撤退後は赤線に。

『よるの女性街・全国案内版』によれば、昭和30年当時<二七〇軒、約一二〇〇人の女が屯している>。

売春防止法施行後の混沌期を経て、現在は特殊浴場街を形成。

その一方で、特浴営業禁止区域を歩くとカフェー街時代の建物を散見できる。


吉原大門交差点付近に二軒の戦前建築が並ぶ。

左が馬肉の「中江」(大正13年築)、右が天ぷらの「土手の伊勢屋」(昭和2年築)。

いずれも登録有形文化財指定。


吉原大門交差点に残る「見返り柳」。


土手通りから西へS字カーブを描く「五十間通り」。


吉原大門が、現在の吉原交番付近にあった。

この先、真っ直ぐに伸びる通りが「仲之町通り」。

この左右に大門寄りから江戸町一丁目・二丁目、揚屋町、角町、京町一丁目・二丁目があり、上に「浅草新吉原」と冠していた。

昭和41年の町名変更によりそれらの町名が消失し、現在は「千束四丁目」に。


仲之町通りの街並み。

千束四丁目交差点を中心に伸びる揚屋町通り、角町通りに特殊浴場が集中している。


風俗営業法一部改正(昭和41年)により、京町一・二丁目全域と江戸町一・二丁目の東側半分が営業禁止区域に指定。

この結果、これらの地域に特殊浴場店舗が進出できず、赤線遺構が点在する街並みに。


『赤線跡を歩く』文庫版にある旧「モリヤ」の建物。

「モリヤ荘」という名の現役のアパートに。


旧「モリヤ」の並びに建つ、独特の外観と出窓を持つ転業アパート。

現在駐車場になっている場所も、かつては曲面のコーナーを持つ建物が存在していた(『赤線跡を歩く』に掲載)。


「マスミ」の屋号が残る建物。


独特のファサードを持つ建物が向かい合って残る。

写真下は「親切」という屋号だった。


特殊浴場が並ぶ江戸町通りにも赤線遺構が残っている。

写真上の建物は、特浴の送迎車用の車庫に使われている。


江戸町と角町の間にある路地に転業旅館が残る。 ※追記 2016年11月解体 


特殊浴場が密集する江戸町二丁目と角町の間に、『赤線跡を歩く』にも掲載されている、独特の凹凸を持つ転業アパートが残る。

軒下にも照明が見られる。



京町二丁目には、旧「正直」、「日光」と当時の屋号を引き継ぐビヤホール、旅館が残る。



京町二丁目の路地にもカフェー建築が残っている。


吉原きっての大店「大文字楼」があった場所は、吉原公園という児童公園に。

この通りがお歯黒どぶだった名残りで、高低差が見られる。

児童公園の向こう側には、特殊浴場の店舗が建ち並ぶ光景が見られる。


吉原神社は、吉原遊郭内の5つの稲荷神社と吉原弁財天を合祀してできた。


境内の灯籠の台座には、世話役として妓楼の屋号が記されている。


吉原弁財天は、吉原神社の飛び地境内社として祀られる。


周囲の玉垣には妓楼の屋号が記されている。


吉原弁財天の境内に祀られている、関東大震災被災者慰霊塔。


2015年10月訪問

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東京近郊を中心に、たまに遠方に出かけたりして、下手糞な街並み写真をデジカメで撮っています。 人様にお見せするというよりは、自分の思い出のアルバムという形になっています。 (タイトル写真・内子=愛媛県)