龍神・栄橋の街並み(大阪府堺市)
龍神・栄橋遊郭
南海堺駅から徒歩数分の至近にある龍神橋一丁目・栄橋一丁目は四方に区画されているが、もともとは「龍神遊郭」「栄橋遊郭」と呼ばれた場所だった。
「東洋のベニス」と称された商都・堺は、近代に入り工業都市に発展。
その堺には3カ所の遊郭が存在したが、中でも規模が大きかったのが「龍神」「栄橋」と隣接する2つの遊郭だった。
『全国遊郭案内』によれば、龍神遊郭が「貸座敷数十軒、娼妓約百名位」、栄橋遊郭が「妓楼六十軒、娼妓約五百四十軒位」という規模だった。
堺は幾度の空襲で市街地が焼失し、遊郭も焦土と化したため、戦前の遺構は皆無。
戦後は赤線として復活するも、昭和33年廃止。
もう一つ、阪堺電車御料駅付近にも乳守遊郭が「妓楼四十軒、娼妓約四百名位」の規模にて存在していた。
堺駅前を降りたってすぐにある堅川の橋上にて。
この銅像は誰?
栄橋一丁目の街並み
駅前には数年前にカフェー建築と思しき物件があったようだが、すでになく、遺構といえばこれ位しかなかった。
南海高架を跨いだ栄橋二丁目に豆タイルを施した転業旅館(アパート)が一軒残っていた。
転業旅館の近くには長屋状の店舗建築。
神明神社には「龍神廓」とその妓楼の屋号が刻まれた玉垣が残されていた。
龍神・栄橋遊郭の存在を示す唯一ともいえる遺構。
この地には明治初年に起きた土佐藩兵による仏人水兵殺傷事件(堺事件)の碑が立っている。
戊辰戦争の真っ最中、まだ攘夷熱がさめやらぬ頃の事件であって、新政府は対応に苦慮した。
事件の当事者11人が妙国寺にて切腹。
訪問 2016年7月
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